| _Cannes International Film Festival | ドンデッチ映画情報 DVD販売_ |
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毎年、世界中で数百の映画祭が行われると言われています。「国際映画祭」として有名なところでは【ヴェネチア】【カンヌ】【ベルリン】の3大映画祭、また【ロカルノ】【サン・セバスチャン】【ロッテルダム】【ミュンヘン】【ニューヨーク】そして【モントリオール】【サンダンス】等々がありますが、数ある国際映画祭の中でも、やはり歴史、質、華やかさ、知名度、注目度すべての点において【カンヌ映画祭】は他を一歩リードしていると言えるでしょう。そこで、このコーナーではその歴史・経緯はもとより、第1回から現在に至るまでの主要部門の受賞作品・受賞者の一覧、そして毎年5月に開かれるフェスティバルの予告・結果など“カンヌ映画祭のすべて”を掲載いたします。
5月16日に開幕した2007年・第60回カンヌ国際映画祭は最終日の27日、授賞式が行われ以下の各賞が決定しました。パルムドール争いに多大な影響を及ぼすと言われている審査委員長を今年は話題作『クィーン』のスティーヴン・フリアーズ監督(英国)が務め、以下マギー・チャン、トニ・コレット、マリア・デ・メディロス、サラ・ポーリー、マルコ・ベロッキオ、オルハン・パムク、ミシェル・ピコリ、アブデラヒマヌ・シッサコなど各分野から錚々たる顔ぶれが審査員に名を連ねた今年の映画祭、パルムドールを頂点とする各賞の行方は……
最高賞のパルムドールを受賞したのはクリスチャン・ムンギウ監督『4 luni, 3 saptamini si 2 zile/4カ月、3週間と2日』、そして日本から唯一出品されていた河瀬直美監督『殯の森』が、見事最高賞のパルムドールに次ぐ「グランプリ」を獲得しました。同監督は1997年に『萌の朱雀』でカメラドール(新人監督賞)を受賞、2003年には『沙羅双樹』でコンペ部門に出品と、カンヌとは縁のある監督、2度目となった今回、遂に大賞受賞となりました。その他60回記念賞にガス・ヴァン・サント監督『Paranoid Park/パラノイド・パーク』が選ばれています。 ![]() 主要部門の受賞作は以下の通りです。 2007年・第60回カンヌ国際映画祭 主な受賞結果
2007年度コンペティション部門出品作はこちらから コンペティション部門外の話題作 ![]()
国際映画祭としては世界最大規模を誇る「カンヌ国際国際映画祭」。その第1回から現在に至るまでの主要部門 の受賞者・作品を一覧にまとめました。右フレームから、ご覧になりたい回数をクリックして下さい。
まず、開催地のカンヌは南フランスのリゾート地。メイン会場となるのは、1983年に建てられたパレ・デュ・フェスティバル・エ・コングレ(ヌーヴォ・パレ)です。回りには高級ホテル、そして真っ青な空と海、まさに太陽がいっぱいのコート・ダジュールのもと毎年5月の中頃、10日〜2週間ほど、世界中から映画人が集まってきます。ちょうど、バカンスの時期と重なることもあって、観光客も多く、カンヌの町はお祭り一色になります。カンヌ映画祭と一口に言っても、いろいろな部門があり、通常われわれ映画ファンが注目しているのは、コンペティションと呼ばれる部門(各国からの正式出展作品による賞レース)です。 毎年、著名な映画人・文化人の中から審査員数名が選出され、このコンペティション部門の作品を審査します。そして最高評価の作品には「パルム・ドール」と呼ばれる大賞(金賞)が授与されます。以前は大賞を「グランプリ」と呼んでいたのですが、最近では、「パルム・ドール(大賞)」が最高順位、そしてその下位順位として「グランプリ(銀賞)」が授与されるようになりました。また、その他に審査員特別賞、主演男優賞、主演女優賞、監督賞、カメラドール(新人監督賞)、審査員賞、国際批評家賞などが、それぞれの作品の中から決定されます。
先発にあたるヴェネチア映画祭(1932年〜)が隆盛を極めたころ(またそれは政治の介入によりその権威を失墜しつつある頃と重なるわけですが)、ヴェネチアでの映画祭の繁栄を見たフランスの作家・歴史学者であるフィリップ・エルランジェは、「自国でも映画祭を」と主張します。 その後、エルランジェの努力は実を結び、国、市の協力も得ることができ、開催地はカンヌに決定。ポスター、招待状も出来上がり、いよいよ「第1回カンヌ映画祭」は1939年9月1日より開催されることになりました。 しかし、当時の世界(欧州)はナチス・ドイツが猛威をふるい、とても映画祭を開催できるような状況にはなく、1939年のカンヌ映画祭は中止、幻に終わったのです。 結局第1回の映画祭が行われたのは、第二次大戦後の1946年でした。期日は9月20日より10月7日まで、2週間開催されました。創始者は前記のフィリップ・エルランジェ。ヴァランヌ国務大臣が「これよりカンヌ国際映画祭の開催を宣言する」と述べ、【Festival de Cannes】の歴史的第一歩を踏み出したのです。当時はカジノとして使用していたホールをメインの上映会場にあて、100本を越す作品が上映されました。 第2回(1947年)は、前年行われた狭い会場ではなく、ホテルの庭がメイン会場となりました。新会場の建設が急がれたのですが、遅々として進まず、翌1948年は中止、第3回は1949年に行われましたが、この年も会場設備に問題を残し、翌年の1950年はまた中止となりました。 「国際映画祭」の名に相応しい環境が整備され、現在のように季節も春になったのは第4回(1951年)からです。 その後、1968年の第21回映画祭が「学生紛争に端を発した五月革命」により中止。また、1979年第32回映画祭では、審査委員長の作家・フランソワーズ・サガンが、「作品の審査に実行委から圧力がかかっている。グランプリ作品(地獄の黙示録)は公正な審査の結果ではない」との爆弾発言騒動など、紆余曲折はあったものの、現在まで、世界中の国際映画祭の牽引役を担い、南フランスの小さな町【カンヌ】は世界中に知られるようになったのです。
低迷の時期と言われて久しい日本映画ですが、ひと昔前までは日本映画が国際映画祭でグランプリを獲得!というニュースが飛び込んできても、そう驚くべき出来事ではないほど、海外でも評価の高い作品が揃っていた時期がありました。 1951年、黒澤明監督の『羅生門』が、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを獲得したのをはじめとして、国際映画祭における日本映画は、一時期なくてはならない存在と言われるほどだったのです。 カンヌ映画祭に限って見ても、1954年の『地獄門(衣笠貞之助監督)』、1980年の『影武者(黒澤明監督)』、1983年の『楢山節考(今村昌平監督)』と、3度グランプリを獲得しています。(そして 1997年、『うなぎ(今村昌平監督)』で4度目のグランプリ獲得となりました。)カンヌ映画祭で、日本映画から初の受賞者はと言えば、1952年、撮影賞を受賞した杉山公平(源氏物語)。次が、前述の1954年『地獄門』となります。 また、カンヌ映画祭と言えば、大島渚監督の名を挙げなければなりません。自身作『儀式』で、『闇の中の魑魅魍魎(中平康監督)』と正式出品を巡っての抗議行動(結局『闇の中の魑魅魍魎』が正式出品作に)を起こした1971年。監督週間で参加した『愛のコリーダ』が絶大な評価を受け、世界のオオシマに飛躍した1976年。『愛の亡霊』でついに監督賞を受賞するもグランプリには一歩及ばなかった1978年。 そして傑作『戦場のメリークリスマス』を送り出し、念願のグランプリ獲得か!と思ったところ、同じ日本からの出品作『楢山節考(今村昌平監督)』に浚われた1983年。等など、大島監督とカンヌ映画祭は切っても切れない縁にあり、カンヌ映画祭に対する大島監督の執念が感じられます。 今まで挙げたもの以外では、1960年、審査員特別賞の『鍵(市川昆監督)』、1963年、審査員特別賞の『切腹(小林正樹監督)』、1964年、審査員特別賞の『砂の女(勅使河原宏監督)』、1965年、審査員特別賞の『怪談(小林正樹監督』、1990年、グランプリ・カンヌ90(審査員大賞)の『死の棘(小栗康平監督)』などがそれぞれ受賞しています。 |
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