アカデミー賞ヒストリー

■アカデミー賞の誕生

 現在では、世界中から注目される映画界の一大イベントアカデミー賞。世界各国にテレビ中継され、授賞式を見る人の数は10億人とも言われています。
 そのアカデミー賞の記念すべき第1回が行われたのは、1929年5月16日のことでした。アカデミー賞というと華やかな面ばかり目につきますが、そもそもアカデミー賞という賞は、映画芸術科学アカデミー(The Academy of Motion Picture Arts and Sciences)と呼ばれる団体が誕生した際、付随して設けられたもので、これほどまでに大イベントになろうとは、当時は誰も思っても見なかったことでした。
 それでは映画芸術科学アカデミーとはいったいどんな組織なのか?、何故、設立されたのか?ですが、今から遡ること約80年(1927年頃)、当時、ハリウッドの撮影所では労働者が組合を結成し、経営者側と、労働条件・賃金に関し激しく対立していました。大物プロデューサーであり、経営者(MGM副社長)でもあったルイス・B・メイヤーは、組合に対し危機感を持ち、このままではいずれ監督・俳優たちも組合を結成するだろう、そうなれば彼らに払う賃金は莫大な額になってしまう…と思い至ります。
 そこでメイヤーは経営者の立場からあるアイデアを思いつきます。彼らが動き出す前に、先にハリウッド映画人(制作者・監督・俳優・脚本家・カメラマンなど)の組織を結成し、そこで労働問題を話し合おう。組合に先手を打ち、経営者側に有利に話しを進めようとしたのです。メイヤーの自宅にコンラッド・ネイゲル(俳優)、フレッド・ニブロ(監督)、フレッド・ビートソン(製作者)の3人が呼ばれ、設立に向けての準備が話し合われました。
 新組織の発足式が行われたのは、1927年5月11日、ビルトモア・ホテルに275人が集りました。集まった中には、大スターダグラス・フェアバンクス(初代会長)、ハリーとジャックのワーナーブラザーズ、監督のセシル・B・デミル、ヘンリー・キングなどがおり、いずれも当時のハリウッドを代表する映画人でいわばエリート達でした。メイヤーの目的はあくまで、組合対策でしたが、「映画芸術および科学の質の向上をはかること」との大義名分が掲げられ、活動の一つとして「優れた業績に対する表彰」がつけ加えられました。晩餐会を開き、その場で発表を行うというものです。「無駄」とのメイヤーを説得し、何とか表彰式は行われることになりました。この先世界的な巨大イベントに一人歩きをしていく「アカデミー賞」の誕生です。
 記念すべき第1回の授賞式が行われたのは1929年5月16日でした。会場はハリウッド・ルーズベルト・ホテル。ただし、集まった会員は200人ほどで、現在のような華やかな印象とはかけ離れたものでした。映画エリートの内輪の集まりだったのです。授賞式というよりはディナー・パーティでした。授賞式は食事のあと行われ、会長であるダグラス・フェアバンクスが受賞者に黄金の像を手渡しました。その名も有名な「オスカー像(オスカーと呼ばれるようになったのは数年後から)」です。ちなみに作品賞はパラマウントの戦争大作「つばさ」、主演男優賞はドイツ出身のエミール・ヤニングス(欠席)、主演女優賞は22歳の若さのジャネット・ゲイナー、監督賞はドラマ部門よりフランク・ボーゼーギ、コメディ部門よりリュイス・マイルストンがそれぞれ受賞しています。

■アカデミー賞の危機

 第二次大戦前のハリウッドは、ビッグファイブと呼ばれていたワーナー、パラマウント、MGM、20世紀フォックス、RKOが支配していました。当然、それらの映画会社の権力者たちの発言力は大きく、中でもMGMのメイヤーはアカデミー賞の創立者でもあり、その発言は賞の行方にも影響を与えていたと言えます。賞は権力者の気に入った者に与えられるとの風評が映画人の中に浸透していきました。「アンフェアなアカデミー賞」です。そんな権力者と現場の俳優・監督・脚本家たちは、当初から対立し、経営者側が賃金カットを押しつけるに及びその対立はついに、授賞式にまで持ち込まれました。
 現場の映画人たちは1936年3月の第8回授賞式をボイコットしようと呼びかけました。監督・俳優たちは呼びかけに同調し、ボイコットを決めていきました。授賞式は中止にはなりませんでしたが、集まったメンバーは少なく、実に寂しいものでした。このままではアカデミー賞が危ない。当時の会長フランク・キャプラは、アカデミー賞を守るためには権力者の排除が不可欠であると痛切に感じます。キャプラは大物プロデューサーたちがアカデミーを組合対策に利用しないことを確約させ、組合員も200人から一気に1400人へ増やし、フェアな選考の体制づくりを進めました。
 アカデミー賞は徐々にではありますが、映画人のための映画人による賞へと近付いていったのです。その流れは止まらず、1949年にはメジャー5社が授賞式を経済的に援助しないと通告してきました。各社の経営状態の悪化によるものですが、それにより、権力者たちの発言力はアカデミー賞から排除され、より自由な、本来あるべき選考が行われるようになったのです。「オスカーはようやく自立した」のです。ただし、映画会社からの援助打ち切りは、アカデミー自体の経済的危機をも意味します。それを救ったのはテレビ局でした。映画会社の宿命のライバルであるテレビ会社(NBC)が授賞式の放映(10万ドル)を申し出たのです。皮肉なことにアカデミーはテレビ局により助けられたことになります。

■オスカー像の由来

 アカデミー賞=オスカーの図式が示す通り、現在では「オスカー」は映画人にとっては栄光のシンボルとして、ファンにとっては尊敬と親愛の名称として親しまれていますが、それでは何故、受賞者に送られる像を「オスカー像」と呼ぶようになったのでしょうか。その前に、オスカー像をデザインしたのは映画芸術科学アカデミー(以下アカデミー)が創立された当時のMGM美術監督のセドリック・ギボンズでした。ギボンズのデザインをもとに彫刻家ジョージ・スタンレーが粘土像を作り、さらに彫像家アレックス・スミスが、高さ約34センチ、重さ約3キロの像に金メッキを施し完成させました。
 アカデミー賞に送られる像を最初から「オスカー像」と呼んでいた訳ではありません。最初のころは単に小像(Statuette)と呼ばれていました。それではいつ頃から「オスカー」と呼ばれるようになったのでしょうか。諸説紛々の中、信憑性の高い説としては、1931年、アカデミー事務局に勤める女性職員マーガレット・レリックがその小像を見て発した言葉からというものです。「私の叔父さんのオスカーにそっくり」。以後、次第に人々は小像をオスカーと呼ぶようになります。そして、公の場(第6回授賞式・1934年)でウォルト・ディズニーが「オスカーを手に出来てうれしい」とスピーチしたことで、「オスカー」はハリウッド映画人に完全に認知されることになりました。
(参考文献:川本三郎著「アカデミー賞」中央公論社)